サウスゲイト法律事務所の共同創業者であり、五常・アンド・カンパニーの創業前からのサポーターであり、取締役であり、友人であった木下万暁さんが2023年7月9日に膵臓がんにより亡くなりました。彼の死を悼み、共同創業者であり代表執行役である慎泰俊個人からのメッセージという形式で追悼記事を掲載することとしました。

僕と知り合う前の万暁さん

木下万暁さんは1976年に生まれた。生まれた土地は、母が里帰りで戻った先である石川県小松市。生まれた日は10月2日で、ガンジーと同じ誕生日であり、僕の誕生日である10月1日とは1日違い。生まれ育った場所は東京の西荻窪・荻窪のエリア。その後何度か引っ越すものの、基本的に武蔵野市・練馬区のあたりに暮らしていた。

そもそも万暁(まんぎょう)という名前がとても変わっている。その名前を決めたのは、祖父、父、おじだったそうだ。父とおじのうち、おじは荘従(そうじゅう)という昔風の名前だったのだけれども、こういった珍しい名前は覚えてもらいやすく、得をすることが多かったという学びから、名前が万暁となった。なお、もともとは本来は萬暁にしようとしたが、役所の戸籍登録上、萬の字を使うことができなかったため万暁となったのだという。

確かにマンギョウという名前は覚えやすかった。響きに独特の趣がある。本人もその名前にはとても感謝していたが、スタバなどで注文して名前を説明するのは面倒なようで、スタバネームはケンであるらしい。「日は何度でも昇る」というのが、万暁さん本人が解釈する名前の意味だそうだ。

万暁さんがお父さんに感謝していることは、一つは名前、もう一つは弁護士という仕事を面白いと思わせてくれたことだったと話していた。そのお父さん、たまたま僕の出ていたラジオ番組を聴いて感銘を受けたらしく「こんな立派な人がいる(ご本人談)」と息子にメールしたところ、はじめて万暁さんと僕の関わりを知ったらしい。この、万暁さんの親孝行に多少なりとも貢献することができた、という一点において、このラジオ番組には登壇してよかったなと思っている。

周囲から一目置かれる小中学校時代を経て、慶応高校に入学した万暁さんはアメフトに3年間を捧げる。中学時代の深夜番組でNFLのアメフトのクリスマスボールの試合を見たのがきっかけで、アメフト部がある高校だけを受験したのだそうだ。

高校時代の摂取カロリーは毎日6000kcalが目標だった。アメフト選手になるためには体重を増やす必要があったのだけど、結局身長は185cm、体重は80kgまでしか増えなかった。なので、慶応大学に進学してからはアメフトを諦め、弁護士を目指して勉強をするようになる。

高校時代は全く勉強をしていなかったが(だから、法学部法律学科に入れず、法学部政治学科に入っている)、人と話さなすぎて顔の表情筋が失われるほどに一生懸命に勉強をした結果、在学中に司法試験に合格する。当時、在学中に司法試験に合格するのは極めて珍しいことだった。

司法試験合格後、普通だったら皆すぐに司法修習に行くところを、万暁さんは1年間のギャップイヤーをとることにする。行った先はアメリカ。特に一番時間を過ごしたのはニューヨークだった。現地に住んでいた日本人アーティストの家に転がり込んで、居候兼キャットシッターとして住んでいた。今も一番好きな街はニューヨークで、そこにいると、何者でもない状態からなんとか這い上がろうとしていた当時の自分を思い出すのだという。弁護士としてアメリカで研修を受けていたときも、働いていた事務所はタイムズスクエアの目の前にあった。

その後日本に戻り、司法修習をはじめる。ハンセン病訴訟をしている弁護士事務所で研修をしていた万暁さんは、社会課題に関わることに意義を見出すようになっていった。なお、万暁さんのお父さんも弁護士であり、町で弁護士をやりながら、長く児童虐待問題に関わってきたという。だからこそ、万暁さんはプロボノ活動に肯定的な弁護士事務所を選んだ。結果として入所したのは外国系法律事務所であるポール・ヘイスティングス。当時も今も、プロボノに積極的な日本の大手渉外法律事務所は少ない。

そんな万暁さんをプロボノに誘ってくれたのは大毅弁護士だったという。ヒューマン・ライツ・ウォッチの支援をはじめ、日本のプロボノ弁護士の草分け的な存在の一人だった大弁護士は2022年9月に急逝している。彼が亡くなったときにショックを受けていた万暁さんのことを、僕はよく覚えている。

「大毅さんは最後の最後までカッコよかった。亡くなる1週間前にもかかわらず僕に電話をくれて、『Xが最近元気がない。とても心配している』と話すような人でした」と話す万暁さん。自身が癌告知を受けたあとの生き方にも、大弁護士の生き様が反映されている気がする。

Living in Peaceと万暁さん

ポール・ヘイスティングスからオメルベニー・アンド・マイヤーズに転職した万暁さんは、日本のNPOバンクの人たちと関わりをもつようになっていた。グラミン銀行のノーベル平和賞受賞などを経て、日本でも社会課題解決の手段としての金融サービスが注目されはじめていた時期だった。そのNPOバンクの人たちに、どのようにしたら規制を乗り越えて事業ができるかをアドバイスしていたのが万暁さんだった。

ちょうど僕も2007年にLiving in Peace(LIP)を創立し、2008年からは日本初のマイクロファイナンス投資ファンドをつくろうとしていた。メンバーの一人がNPOバンクの集会に参加して、そこで万暁さんに出会ったのが2008年9月、その後、本格的にマイクロファイナンス投資ファンドをつくろうとして、僕が万暁さんに初めて会ったのが2009年1月だった。場所は明治安田生命ビルに入っていたオメルベニー・アンド・マイヤーズの事務所。

最初に会ったときの万暁さんは「NPOで金商法の規制を乗り越えてファンドをつくるとか本当に難しいので、やめておいたほうがいいっすよ」というスタンスだった。そりゃそうだろう。今の僕だって同じことを考える。

だけど、当時の僕たちは真剣だったし、なんとかしてこれを実現しようとしていた。ミュージックセキュリティーズの小松さんも関与を決めてくれて、一緒にプロジェクトを始めることになった。万暁さんは僕たちの活動を個人で手伝うばかりではなく、オメルベニー・アンド・マイヤーズのプロボノ案件として、複数人の弁護士さんらを加えてこの案件を支援してくれるようになった。

今もそうなのだろうけど、当時のLIPには本当に色んな人がいた。それぞれの専門領域を持つけれども職歴2〜5年くらいの若手らが中心のプロジェクトだった。おじさんになった今の僕から当時を振り返ってみると、危ういとしか言いようがない。実際、ミーティング中に僕がキレて契約書を破ろうとしたり(紙を破っても何の意味もないのにね)、僕じゃない誰かがブチギレて誰かが号泣したり、毎週土曜日の20時から23時までミーティングをして、そのあと朝5時まで飲んだり、というような具合だった。端的にいえば、若かったし、危うかった。

そういった事件事故を起こしそうな集団の中にあって、万暁さんは唯一の良識だった。ファンドを販売することについては、規制上様々な論点があった。たとえば、僕たちNPOはファンドを企画することはできても販売をすることができない。だけど、ファンドに投資をしてくれる人がいなかったら、事業が前に進まない。なんとか規制をかいくぐって投資家を増やそうという取り組みを考えつく僕たちに対して、「ここまではOK、ここからはダメ」と線を引いてくれたのは万暁さんだった。

今になって改めて、金融業の規制遵守の重要さを思い知っているが、当時万暁さんがいなかったら、どこかで何かをやらかしてこのプロジェクトは終わっていたのかもしれない。

2009年9月、無事に第一号ファンドが立ち上がる。オメルベニー・アンド・マイヤーズは当時の契約書や資料をきれいな本にしてくれた。それを無くしてしまった自分の不注意さが悔やまれる。

万暁さんとの関わりはそこで終わりではなかった。それから長い間、彼は監事としてLiving in Peaceを支えてくれるようになる。万暁さんの関わりはいつも引き気味で、本当にリスクが高い案件においてはガンガンと前に出てて引かないというスタイルだった。

五常創業後の万暁さん

Living in Peaceの活動をきっかけに、2012年9月にサマーダボスに参加した僕は当時30歳だった。翌月31歳になる前に何をテーマにして起業をするかを確定させようとしていた僕は、民間セクターの世界銀行をつくることに決めた。そう、「プロジェクト五常」は2012年の9月に始まったのだった。11月には勤め先だったユニゾン・キャピタルに退職意向を伝え、働きながら起業準備をはじめる。

そんな時に共同創業者として声をかけた一人が万暁さんだった。一緒に起業しましょうと2013年3月に話している。万暁さんはまさか僕がそんなお願いをしに来るとは思わなかったようなので面食らっていたし、亡くなる2ヶ月前に話していたときにも「なぜ僕を誘ったんですか?」と聞いていた。

そのときから、万暁さんには自分で事務所を始める構想があった。彼は、自分は起業家のように同じ事業を10年20年と続けることはできないけれども、そういった思いを持っている人たちを支える仕事はずっと続けられると思っていた。

だから、断られたのも当然といえば当然だった。後のサウスゲイトの成功を考えると、それで良かったんだなと思う。それでも万暁さんとの関わりはずっと続いていた。

五常の起業初期は文字通り混沌としていたのだけど、やっぱり一番大変だったのは最初のチーム解散のとき。今から考えれば「ベンチャーあるある」なのだけれども、当時の僕にとってはとても苦しい出来事だった。そういうときにサッと離れていく人たちがいるなかで、「僕はやっぱり慎さんが正しいと思うんですよね。慎さんが続けるのならこの事業は大丈夫です。慎さんはやり抜くと思います」と話してくれたのは万暁さんだった。自分に自信を失っていた僕が、その言葉にどれほど救われたか分からない。

そこから色々あり、僕は長島さん・サンジェイと三人で起業をすることになる。長島さんの加入前に必要だった登記関連の実務を万暁さんはホワイト・アンド・ケースのプロボノ案件としてサポートしてくれた。今になって考えてみると、創業すらしていない会社にプロボノ支援の承認を得るのはすごいことだと思う。


左から、長島さん、サンジェイ、僕、レヌカ、ソバン、プラチ、斎藤さん、万暁さん、永井弁護士

会社設立当初の法務はものすごく大切だ。ここでしくじると、後々に祟る。この当時の会社のストラクチャーをきちんと設計していなかったら、五常の極めて特色ある資本政策であるサティヤーグラハ・パートナーシップもつくることができなかった。

五常を創業した1年後の2015年、万暁さんはサウスゲイトを設立する。ブティックの弁護士事務所は普通は創業当初に苦労するはずなのに、あっという間に顧客を獲得して利益を出すようになった。僕も当初は万暁さんにお客さんの紹介を、とか思っていたのだけれども、その必要は一瞬でなくなってしまった。

その理由は分かる。それは万暁さんの弁護士としての知見ゆえではない(もちろん万暁さんは技術力という点でもトップクラスの弁護士ではあるけれども)。万暁さん自身も「自分より技術的に優れた弁護士はいくらでもいる」とよく話していた。だけど、彼にはビジョンがあり、人間としての誠実さがあり、人の気持ちを理解して心を通わせることができ、仲間をつくることができて、愛嬌があった。

万暁さんを見ていると、マービン・バウアーのことを思い出す。僕が一番尊敬するビジネスパーソンで、マッキンゼーの実質的な創業者。マッキンゼーのコンサルタントたちは「マービンのコンサルタントとしての腕は大したものではなかった」と話す。だけども、会社の価値観を体現し墨守するという点において彼に並ぶ人間はいなかったし、マービンバウアーが生きている間、マッキンゼーの人々はいつも「マービンがなんて言うだろうか」と考えていたという。優れた技術者と、優れたリーダーは違うということなのだろう。

とはいえ出会った当初の万暁さんは、まだ防衛線をきちんと張る弁護士で、自分がトラブルに見舞われないことを気にしているような素振りも見えた。その万暁さんに迫力が出てきたのはサウスゲイト創業後だったと思う。万暁さんはソーシャルにも関心がある辣腕渉外法務弁護士から、プロフェッショナルファームの創業者になっていった。「この人は逃げないで最後まで戦ってくれそうだな」という安心感を与える人になっていった。

創業当初の僕たちは、今以上にファンドレイジングで苦労をしていた。当時はビジネスとしてのマイクロファイナンスの認知度はほぼ無かったし、途上国で事業をしているスタートアップに投資をする機運も全くなかったので、法人の株主に何度当たっても相手にもしてもらえない。場合によってはアポすらも入らない。

でも事業を停滞させるわけにはいかない。事業を成長させるためにはどうしても資金が必要なので、個人を回って少しずつでもお金を集めようという話になった。

ここでも手伝ってくれたのが万暁さんだった。一番最初に万暁さんが紹介してくれた人の一人は有名なM&Aのフィナンシャル・アドバイザーであるFさん。設定されたランチミーティングで、彼は開口一番に「万暁さんから話を聞いた時点で、もう出資することは決めてやってきました」と話していた。

万暁さんから紹介される投資家候補の人とのミーティングはいつもそんな感じだった。すでに万暁さんと話している時点で本人たちは出資をほぼ決めていて、僕たちに会うのは確認作業という感じだった。ちなみに、創業以来、万暁さんから紹介を受けて出資に至らなかった投資家は一人もいなかった。これがいかにとんでもないことか、少しでもファイナンスに関わっている人であれば理解してくれると思う。そんなこと普通はありえない。

後日、万暁さんがいったいどんなマジックを使っていたのか、聞いたことがある。その時に彼が話してくれたのはこういうことだった。

「このメンバーは長期でいえば必ず成功すると思います。慎さんを長く見ていますが、ずっとブレていませんし、失敗しても軌道修正をしてきました。
 ですが、まだまだ若いチームなので、定期的に失敗もすると思います。なので、投資するタイミングが悪かったら投資したお金が溶ける可能性もあります。
 ただ、もしお金が溶けたとしても、それが世の中の役に立ったということについては疑いがありません。私も出資をするので、あなたも出資しませんか。」

この「途中でドタバタがあっても長期的には上向いていく」という主張のことを、万暁さんは「シンテジュン=米国株仮説」とよんでいた。最終的には必ず伸びるレジリエンスがあるということだ。(すなわち、僕が今後も定期的にやらかすであろうことも、彼にとっては織り込み済みなのだろう。確かに僕には大ゴケしてきた実績がある。)

万暁さんが紹介してくれた人たちは、ただお金を出してくれただけではなくて、その後も関係が深くなる人が多かった。先述のFさんも同じだった。

そうやって個人からシリーズA資金調達として12億円を調達した後、僕たちはようやく法人投資家とも協議ができるようになっていた。もうこの時点で創業から3年が経っている。個人から12億円を集めたはよいが、法人からの資金調達が出来なかったら事業がさらに成長することはない、という不安が漂っていた。

あるVCから初めて出てきたタームシートはとても話にならないもので落ち込んだ。その次に、かなり真剣に検討をしてくれるVCがいて、そこから出てきたタームシートで提示されたバリュエーションも、個人投資家から資金調達をしてきたよりも3割くらい低いものだった。なお、僕たちに当時投資をした個人投資家の多くはエンジェル税制を利用することができていて、人によっては投資金額の4割が還付されている。

「税後で考えれば多くの個人にとってはアップラウンドだし、このタイミングで法人から資金調達ができれば、それからは事業が上向くのだから、これは受けても良いのではないか」と僕と菅井さんは考えていた。そして、それを取締役会に相談したとき、万暁さんは強硬に反対した。もしこの増資をするのであれば、自分は辞任せざるをえない、というスタンスだった。

そう、万暁さんのコミュニケーションは、インターフェイスこそ優しいが、スタイルはかなり強硬派で原理主義的だ(万暁さんが長年ボードメンバーをつとめたNPO法人クロスフィールズの小沼大地さんも同じ意見だった)。本件における彼の主張はシンプルで、「一時的にとはいえ、既存株主の利益を害するような資金調達は許容できない」というものだった。シンプルな正論。

万暁さんは僕たちがいかに資金調達に苦労していたのか見ていたのに、こういうことを言える人だった。スポーツを一生懸命にやっていた万暁さんらしい。「うん、みんな頑張っているね。だけど、全然ダメだからやり直しだね。」というやつだ。体育会系だった僕と菅井さんも、最初は「まじかよ・・・」と思ったけれども、そこで気を取り直してさらに資金調達活動を続けた。

そうやって努力を続けたあと、第一生命が初の法人株主になってくれたとき、僕たちはダウンラウンドを免れて増資をすることができた。

それ以来「何があってもダウンラウンドは避ける」というのは五常にとって極めて重要な資金調達方針になっていて、それ以来僕たちはずっとダウンラウンドを避けて資金調達を続けてくることができた。あの時の厳しい言葉がなかったら、今頃はどうなっていたのだろう。

こうやって資金調達が落ち着きはじめた後、次にやっていったのはリーガルカウンセル(法律顧問)探しだった。この時点までは、監査役であったにもかかわらず万暁さんはこっそり僕たちの資金調達の契約を見てくれていた。

ここも万暁さんらしいのだけれども、自分がボードメンバーとして関わっているのだから、自分の弁護士事務所に実務を頼むべきではないというのが彼の強い意見だった。自分の懐にお金が入るかどうかよりも、そういう職業人倫理を優先させるのが万暁さんなのだ。だから彼は信頼される。

そしてリーガルカウンセル探しをするのだけれども、万暁さんのバーはとても高かった。この当時、万暁さんはこういうことを話していた。

「正直私としてこの人に頼みたい!と思える人がマーケットにいないというのが問題で、積極的に提案できずに今に至りました。英語でM&Aできる人は多いですが、大企業の代理がほぼすべての人が多く、また、M&Aが分かりかつベンチャー関係ができる人もあまりいません(ここに英語を絡めると更に少ない)。かつ、インパクト投資とか我々の会話の中に出てくるキーワードが分かる人は殆どいない。五常は今となっては比較的大きなベンチャーに見えると思うのですが、「この会社はHigh-profileだから」とか、「代理すると儲かりそうだから代理したい」とか思われたくないな、ここから先はIPOも分かると良いな、上場後は株主総会とかも頼れると良いな、という風に贅沢に考え始めると、もう無理ゲーな感じです。Priorityつけて考えるべきなんでしょうけど、五常のメンバーが求める最低限のレベルは高く、あまり私も外部弁護士のセレクションで妥協したくありません。」

この万暁さんが唯一「この人がやってくれたら最高だ」と勧めてくれたのがH先生だった。M&Aがわかる、ベンチャーもわかる、社会課題にも関心がある、英語がめっちゃうまい、など全てが揃っていた彼を、万暁さんはずっと「すごい人がいるな」と思って見ていたらしい。

そのH先生と、万暁さん、長島さん、菅井さん、僕が初めて会ったときのことをよく覚えている。恵比寿のマンションの一室にあったオフィス。H先生は「自分が関われば大抵のことはかすり傷で済みます」と話していた。

それを見て、万暁さんも改めてH先生について太鼓判を押した。というのも、H先生は、万暁さんがリーガルカウンセルに求めていた最も重要な条件のひとつ「絶対に逃げないこと」を満たしていると確信したからだ。僕たちはそのミーティング直後にH先生にお願いすることに決めた。それ以来H先生には本当にお世話になっている。


当時の五常のメンバーは僕を含めてめちゃくちゃだったと思う。とにかく口が悪かったし、必要以上に周囲と摩擦を起こしがちだった。ミーティングしても喧嘩ばかりで、議論が成立しないことも多かった。そういう初期のグダグダをなんとか収めることができたのは、唯一の良識であった万暁さんに依ることが多かった(二度目)。僕自身、特に面倒くさい事態に直面したときは、たいてい万暁さんになんとかしてもらっていた。監査法人が何か問題に直面したときでさえ、まず話す相手は万暁さんだった。こんなの社外役員の仕事ではないのにね。


そのグダグダメンバー。左端から万暁さん、レヌカ、長島さん、サンジェイ、菅井さん、プラチ、僕

そんな各種調整業務のなかでも、特に万暁さんにお世話になったのは、長島さんの退任に伴うやりとりだった。組織の人が増えるのに従い、LIP時代からの関わりであった長島さんとの関係も変化しないといけない時期になっていた。僕にとって長島さんはとても大切な友人でもあったので(ベタベタするような関係性でもないのだけれども)、なおさら大変だった。

確信しているけれども、僕たちだけの話し合いだとうまくいかなかったと思う。お互いに尊敬している実務家である万暁さんが一緒に協議をしてくれたから、無事に収まった。

少し話はそれるが、万暁さんは映画が好きで、映画監督になろうと考えていた時期もあったというほどだった。好きな映画にはブルース・ブラザーズ、ゴッド・ファーザー、ショーシャンクの空に、などがあるのだけど、国内映画で彼が好きだったのは三谷幸喜の「12人の優しい日本人」だった。その映画に法律の真理があると彼は話していた。それはすなわち「人が真摯に議論を重ねたら、結論はたいてい妥当なところに落ち着く」というものだ。万暁さんが議論に関わると、それがどんなに込み入ったものであっても、いつも妥当な点に着地をすることができた。

万暁さんのお通夜で、僕はその長島さんと4年ぶりに対面で会う。たまたま、お通夜の長い列で隣に並んだのだった。これも万暁さんの差配なのだろう。

そんな万暁さんが「一番むずかしい意思決定だった」と話していたのが、17年間一緒に働いていた同僚に、これから別の道を歩くことを提案することだったという。結果的に話は無事に着地したし、その後も二人は良好な関係を維持していたそうなのだけど、僕には万暁さんがいたのに、万暁さんがそれを一人でハンドルせざるを得なかったことは、とても心苦しく思っている。


出井さん退任時の取締役会でのチーム写真(全員男!)

2019年の後半くらいから、五常の会社組織としてのフェーズが変わっていった。組織の体をなしていったというのが正しい。

これくらいの時期から、万暁さんの五常への関与は全体的に引き気味になった。放っておいても大した問題は起きないだろうと思うようになってくれたのだろう。それでも困ったとき、必要な時には前に出てくるのが万暁さんだった。たとえばCovid直後に僕たちは急いで資金調達をする必要があったのだけれども、そういうときに必ず万暁さんは手伝ってくれた。そして、相変わらず、万暁さんが紹介する人はただ一つの例外なく五常の株主になってくれた。

こうやって五常が比較的組織として安定してきていたタイミングで、サウスゲイトも落ち着いてきたようだった。そして、万暁さんはこのタイミングで事務所の代表をいったん降りることにする。ボスの弁護士がのさばりがちな普通の事務所とは全く違う、万暁さんらしい選択だった。万暁さんが目指していたことは、事務所が彼という個人を抜きにしても回る組織にすることだったからだ。

最後の時期の万暁さん

事務所の代表を降りて、それを引き継いだ代表らが業務に慣れてきたタイミングで、万暁さんの癌が明らかになった。ステージ4の膵臓がん。

たまたま取締役会が近かったので、病院を出てすぐに会社に連絡がくる。いつも通り、平静が保たれたトーンでの連絡だった。彼は淡々と現時点での平均余命と、今後の治療の方針について説明をしてくれた。悲観的なトーンや動揺はほとんど感じられなかった。

去年の9月に急逝した大毅弁護士と違って、自分に残された時間があることに感謝していると彼は話していた。よくいわれる、死の受容までの5段階(否定、怒り、取引、抑うつ、受容)などというものは全くなく、告知直後の受容だった。そして、状況を完全に理解した上で、彼は最善を尽くそうとしていた。

「もちろん家族ともっと時間を過ごせたら良かったのかもしれないですが、結局時間は有限なのでキリがないんですよ。それよりも、与えられたものに感謝して、日々を過ごし、自分が大切だと思っている人たちに『愛しているよ』と恥ずかしがらずに伝えるのが大切なんだと思っています。」と彼は話していた。

五常の同僚の中にはショックを受ける人もいたけれども、僕は比較的楽観的だった。実際、データでみれば膵臓がんの予後は良くないが、生き残った人もいるのだし、本人が悲観的になっていないのに僕が落ち込んでいるのはおかしいと思ったからだ。万暁さんもそういった付き合いを望んでいた。

そして、当初は万暁さんは普通に仕事を続けていた。初期は抗がん剤の治療も順調のように見えていたので、僕もなおさら楽観的になった。

ただ、そのうちに抗がん剤を強くしても効き目がなくなっていく。万暁さんも痩せていった。

ある日、万暁さんから、いつもと同じ全く平静なトーンで「実はもう万策尽きたという状況でして」という連絡を受ける。僕が彼の死を覚悟したのはようやくこの時になってからだった。

こういう状況になると、連絡をどうするべきかも考えてしまうようになる。家族との時間を大切にしてほしいので連絡をするのが憚られるのだけれども、一方でそういう慮りを彼は嫌がるだろうな、というジレンマがあった。淡々と仕事のやり取りは続けた。

万暁さんが最後に出席した報酬委員会(万暁さんは議長)で、最後まで強く主張していたのが僕の役員報酬だった。「高く設定するべきだ」という万暁さんと、「持株会社メンバーの中央値にしたい」という僕の意見はずっと平行線だった。僕が万暁さんの言うことを聞いていない唯一のことだった。

お金のこととかもそうなのだけど、万暁さんにはすこし俗っぽいところもあった。お金稼ぎの話や、お金がかかる趣味の話とかを楽しそうにしていることも多かった。だけど、それらについて、一つも嫌味がないのが彼の素晴らしいところだった。執着心がないからだろう。

最後にZoomをしたときのことはとても強く覚えている。1対1で、今後の対応を話し合うためのミーティングだった。このとき初めて、体調が悪くて苦しそうな万暁さんを見た。ミーティングが開始したのに気づかずに突っ伏していた万暁さんはとても苦しそうで、額には血管が浮き上がっていた。

それでも僕がコールに入ってきたのに気づいて起き上がり、ミーティングが始まったあとの万暁さんは平静そのものだった。偉大な精神だと思う。

抗がん剤の治療をやめ、最後に痛みを緩和するだけの病棟に万暁さんは入った。病室に入れるのは10人のみ。家族9人と、親友の陣内康豊弁護士が入った。陣内さんは万暁さんの遺産整理などの実務を全部取り仕切っていた。僕たちと最後の時期にやり取りをしていたのも陣内さんだった。ちなみに、最後に陣内さんも含めて議論をしていたのは、万暁さんによる五常への追加出資の話だった。亡くなる1週間前のことだ。投資家から受け取るお金はいつも重たいと感じるけど、これほどに重いお金はなかなかない。

その陣内さんは、万暁さんが癌と知った日から、彼が亡くなる日まで般若心経を毎日1枚ずつ写経していた。理知的な職業の最たるものである弁護士が「困った時の神頼み」をするところに、いかに彼が万暁さんのことを思っていたのかが分かる。葬儀の際に万暁さんの棺に入れられた般若心経は、とても分厚い紙束になっていた。最後の最後まで親友の回復を心から願いながら、一方でその親友の死後の準備を粛々と進める気持ちの辛さは想像ができない。

五常のメンバーは皆で手紙を緩和病棟にいる彼に送ったし、僕と菅井さんはビデオを撮って彼に送った。それに対して、万暁さんは限られた残り時間で感想を送ってくれた。

彼の同級生らは、万暁さんを笑わせるためのビデオを撮り続けていたらしい。「この期に及んで『頑張れ』って言うのも変だから、とりあえず笑わせよう」というのが趣旨だった。最後のビデオは万暁さんのモノマネだったという。

本当に友に恵まれていたんだなと思う。万暁さんからやってくるメッセージは、最後の最後まで自分がいかに幸せかを噛み締めているというものばかりだった。

ちなみに、万暁さんの大好きな食べ物は吉野家の牛丼で、これほどまでに吉野家の牛丼にこだわっている人を僕は見たことがない。頼むのは常に並で、大抵の場合何もつけずに食べる。大盛りを頼まないのは、「お腹がいっぱいになって、自分の牛丼への愛が薄れるのを恐れて」とのことだった(客観的に見て非合理的な心配だと思う)。味が一番優れていると彼が考えるのは有楽町店。それでも、玉ねぎの煮込み具合が正しくなかったら、店側に「もっと頑張ってほしい」というメッセージを伝えようとわざとすこし残す。

緩和病棟でほとんど食事が喉を通らないところ、最後に牛丼と一緒に撮った写真を彼は送ってくれた。さすがに一口しか食べられなかったらしいのだけれども、うれしそうだった。「牛丼への愛を貫くことができましたか?」と聞くのを忘れてしまったのが心残りだ。

死ぬ前に万暁さんが一番誇りに思っているものは何かと聞いた。答えは家族と同僚だった。

妻に対しては「改善してほしいと思うことが一つもない。彼女は辛い局面でこそ強い人だから大丈夫だろう」と話していた。妻と結婚して子どもができてよかったことは、子どもができたあとに、彼女の延長としての妻だけでなくて、母親としての妻を再発見できたことだとうれしそうに話していた。葬儀のときの彼女は辛そうだったけれども、それでも子どもたちに「皆で頑張ろうね」と励ましていた。

子どもたちについては「どう育つのかは本人たちが決めるので、三人がそれぞれ、やりたいと思うことをつかみ取って、素晴らしい友人や同僚に囲まれていくことを願っている。後悔しないで生きていてほしい」とのこと。最近は、子どもがアメフト部に入り、その部活を見に行くのが楽しみだったという。

事務所はまだ大きいとは言えないけれども(本人談。設立年度からすると急速に大きくなっていると思う)、「日本法と外国法の弁護士による、クロスボーダー業務に特化した一流のブティックファームをつくる」というビジョンを信じて一緒に働いてくれる仲間がいたことは最高の幸せだったと話している。

最後まで周囲に愛を伝え、最後は病棟にいる家族たちに愛しているという言葉を伝えながら、2023年7月9日に彼は亡くなった。最後の瞬間の万暁さんは家族に囲まれていたという。朝に妻のYさんから連絡を受け、僕は他の仕事を全て放り出して、ステークホルダーに向けて送るメールを書いた。

葬儀も見事なものだった。通夜葬儀合わせて1000人以上が参列した。置かれている花を見ていても、涙を流す参列者らを見ていても、万暁さんがいかに多くの人に愛されていたのかが分かる。その場にいた一人ひとりが、その人にとって特別な「私と万暁さんの思い出」をもっていた。

「完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことである」と、ローマの哲人皇帝であるマルクス・アウレリウスは話していた。

アウレリウスの自省録に書かれている数々の言葉は、まさに万暁さんの生き様と同じだった。見事な生き方だった。最後の最後まで。

ちなみに、そんな万暁さんも最初から完璧な人間だったわけではない。小学生の頃にクラスの中心人物だった彼はイジメっ子だったらしく、今になってもそれを恥じていた。高校のアメフト部時代には最後の試合で早々に諦めていた自分を悔やんでいた。事務所設立当初、尊敬する友人弁護士から大手事務所の素晴らしさと小規模事務所に出来ることの小ささを説かれたときにカチンときてやり返してしまったことを後悔していた。先にも話したように、俗っぽいところもあった。

ガンジーやキング牧師、ネルソン・マンデラなど、全ての偉人について同じことが言えるのだけれども、過ちを犯さない人はほとんどいない。むしろ唐の太宗などをはじめとして、偉大な人物として歴史に名を残す人は、どこかで何らかの罪を犯している(太宗の場合は兄殺しだった)。偉大な人が偉大なのは、間違えないことではなくて、間違いをどのように自己変革や自己修養につなげるかにかかっているのだと思う。

ただ、どんなに彼の生き様が素晴らしかったと書いてみても、僕自身の心の平静を保とうとしても(僕はそれができるように訓練している)、やっぱり込み上げてくるものは悲しみだ。早すぎる。今も「なんでなんだ!ふざけるな!」と叫びそうになる。

そして、初代会長だった出井さんに続いて万暁さんが亡くなり、2012年9月からのプロジェクト五常を通しで知っている人がいなくなってしまった。この寂しさは筆舌に尽くしがたい。


カンボジアにて。出井さんと万暁さん。万暁さんは忙しくても全ての国にきてくれた

これから僕たちはどうするか

彼は物質的にはこの世からいなくなってしまい、僕たちは残された。僕たちはそれから何かを汲み取って前に進まないといけない。

葬儀のスタッフをさせて頂いたお陰で、万暁さんの死に顔と長く話すことができたのだけど、やると決めたことは三つある。

会社としては、きちんと民間版の世界銀行をつくりきって、金融包摂を世界の当たり前にすること。最後に五常のメンバーに宛ててくれた手紙で、彼は「どうせ民間版の世界銀行とよべる規模の会社にはなるので、原理原則やバリューを曲げずにそれを達成してください」と話していた。規模のみならず質としても、最高の組織と事業をつくる。

また、これは会社のみならず個人の活動でもあるのだけれども、公益事業に関わるビジネスパーソンを日本で劇的に増やしていくこと。僕がLIPをやっていなくて、万暁さんがプロボノをしていなかったら、僕たちは出会うことがなかった。プロボノを日本に定着させたいというのが万暁さんの強い願いだった。それを実現したい。

最後に、自分自身については、生きている限り全力を尽くして生きること。どんなに酷いことが起きても、失敗しても、辛いことがあっても、かっこ悪くても、生きている限りは最善を尽くす。へたり込むのは死んだときにしよう。

僕はもうすこし生き残って地上で働くつもりなので、また会える日までお元気で。そのときによい報告ができるように頑張ります。もし生まれかわりというのがあるのなら(僕は信じていませんが)、また一緒に仕事をしましょう。死を悼むのは今日までにして、明日からは生を謳歌します。